クリムトの解釈と日本のクリスマス
昨日,迷宮美術館でクリムトの特集をやる,ということを知っていた僕はかなり期待して,もう10分以上も前からチャンネルを合わせて待機していた。
クリムトの登場は番組の後半だったが,その日の放送内容は他の画家なども紹介されていてそれなりに楽しめたのだが,クリムトの番になったとき,その解釈にどうしても腑に落ちない事があった。といっても絵の解釈は僕の独断と偏見によるものなので,無理に押しつけ
るつもりはないので,軽い気持ちで読んで頂きたい。
それは『接吻』の解釈なのだが,まず僕はクリムトの画集を数冊持っているが,『接吻』のモデルがクリムトと恋人のエミーリエであるという解釈は全く聞いた事がない。なぜならクリムトは生涯一度も自らの自画像を残していない。クリムトは自らの作品に自分の姿や匂いを決して
残さない性質の人間であり,それは自らも認めている。従ってこのような大きな姿として自らを描くのはどうも様子が変だ。では,なぜわざわざこの番組は『接吻』の二人はクリムトとエミーリエだと言いたがるのだろうか。それは,日本人,いや,人間特有のある種の下世話さに似ている。それは他人の恋愛に首を突っ込む女性週刊誌の記事であり,恋愛至上主義の日本のクリスマスである。なぜ,クリムトの幻惑的で飛躍した世界を無理矢理現実の生身の恋愛と結びつけるのか。絵に興味のない一般人にそう説明するならわかりやすくて面白いかもしれないが,クリムトの超現実主義の世界を考えると,なんとも鼻につく生臭い解釈だ。クリムトの作品は徹底した客観主義で描かれていることが大前提であり,つまりクリムトと絵を見る我々は同一距離からそれを見ているのであり,クリムトの方がよりその作品に近い位置にいるわけではないのである。つまり,彼もまた,自らの描く世界を遠くから眺めている,そう考えられないだろうか。
実はこのクリムトの『自らの絵を遠く離れたものとして取り扱う』ということはとて
もとても重要なポイントで,その特徴は他の作品にも顕著に現れている。
それは絵の被写体である女性に対する畏敬である。代表作の『パラス・アテナ』や『ユーディット』の表情を読み取ってみれば,彼女らの表情は金色の世界に包まれ,自信や威厳に満ちている。それと同時に迂闊に人を寄せ付けないある種の危険さもある。いわゆる親しみやすさの真逆の言葉と言ったほうがよい。自分の知らないもの,知らない超現実世界に対して親しみを込めて見る人はいない。しかし親しみを感じないからといって嫌いになるかというとそうではなくて,知らないからこそ突飛抜けた不思議の世界へ我々はそれらに触れ,『跳ぶ』ことが出来る。超現実主義や幻想主義の魅力はそこにあるといっていい。
つまりクリムトの世界は決して身近にあるものではなく,むしろ現実世界の対岸にあるべき存在として捉えられるべきなのだ。従って,『接吻』のモデルをクリムト自身とエミーリエなどという単純下世話な解釈は僕は認められない,と考えている。
絵画を世間一般の人により親しみを持ってもらうのはいい事だろうが,その為とはいえ,全く正反対の違った本末転倒名解釈をつけられるのは作者にとっても信奉者にとってもたまったものではないと言いたかったまでである。